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2010年3月

2010年3月24日 (水)

春のかなしみ

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

谷川俊太郎『かなしみ』

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春になると悲しくなる
その悲しみは
この詩のなかの悲しみに似て
春になると
この詩を思い出す

春は新たな明るい季節というけれど
私にとっては
どうもそうではないらしい
どちらかというと
失う季節だ
今まで失ってきたものを
ふと思い出させる季節だ

桜は咲き
そして風に散り
そうやって今年もきっと春を乗り切る

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2010年3月22日 (月)

真っ当なことを真っ当におこなうということ

竜馬は終生、餅はあくまでも餅にすぎぬ、という考えの持ちぬし
だった。腹がへった時に食えばよい。

司馬遼太郎『竜馬がゆく』より

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このストレートな考え方は当たり前に出来そうで出来ないことの
ように思う。
色々な「意味付け」が出てくると、真っ当で当たり前のことが
ゆがんでしまうということは、世の中にあふれている。
日本のためだと言って殺し合いをしたり、仲間を追いつめたり、
それは何も幕末のことだけではない。会社のためと思ってルールを
破ってしまったり、日本のためだと言って人を貶めたり、今の
世の中でも山ほどあるじゃないか。
自分だって、よっぽど注意しないとその妙な「意味付け」とやらに
惑わされて、真っ当な道から外れてしまうことはあり得る。
まわりの状況がどうであれ、自分への利益がどうであれ、真っ当
なことを失わずにいられることは大事だけれども難しいものだと
つくづく思う。

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2010年3月18日 (木)

事実と真実


あふれるほど「事実」は報道されます。表面に見える「事実」が
多ければ多いほど「真実」は隠されます。

橋田信介『世界の戦場でバカとさけぶ』より
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この世の中は、日々事実が報道されています。あふれるばかりの
情報です。でもそのあふれる事実の中の何が「真実」なんだろう、
と考えるとわからなくなります。情報の海の中で溺れている自分
に気がつきます。事件にしても政治にしても社会問題、国際問題、
その「真実」はいつも霧のなかです。
多くの事実であふれた世の中で、真実をわかったつもりになって
しまってはいないか。そうかそうか、なんて納得した気になって
それで終わりにしてはいけないことが山ほどある、と思うんだ。


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2010年3月15日 (月)

大丈夫。どうにか、なる。

生活。

良い仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつってゐるのさ

どうにか、なる。

太宰治『晩年』より
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太宰のことばはやさしい。
どうにもならないと思ってしまいそうなとき
(もしくは思っているとき)
「どうにか、なる」と声に出すのかもしれない。
弱っている心には、太宰のことばはやさしく沁みる。
きっと「どうにか、なる」。

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2010年3月14日 (日)

想いを包む

布染めつ 心染めつ
絲アヤオリ 想ヒアヤオリ

柳宗悦の『心偈』より
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ことばは美しいと思う
短いことばのなかに
色や温度や想いが包まれていて
それがほんのりと香ってくる

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2010年3月13日 (土)

自分以外の人生

あなたの知らないところにいろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえのないように
あなたの知らない人生もまたかけがえがない
人を愛するということは知らない人生を知るということだ
灰谷健次郎『ひとりぼっちの動物園』より
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今「自分」ばかりをみていないだろうか
「自分が」苦境にある
「自分が」苦労している
「自分が」嫌な思いをしている
「自分は」これだけがんばっているんだから
「自分は」悪くない
こんな思考になっていないだろうか
でも、苦しんでいるのは自分だけじゃない
自分が苦しんでいる今この時に私以外の誰かも苦しんでいるかもしれない
もっと大きな困難に立ち向かっているのかもしれない
自分だけが「かわいそう」なわけではないと
思えるかどうかだ
自分以外のだれかの人生を認めること
それは心のバランスをとるのにとても重要なことのように思う

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2010年3月 2日 (火)

犠牲の上に生きること

いまの人はみんな人間の命を食べて生きている。戦争で死んだ人の
命を食べて生きている。戦争に反対して殺された人の命をたべて生
きている。平気で命を食べている人がいる。苦しそうに命を食べて
いる人もいる。
灰谷健次郎『兎の眼』より
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父親が死んだとき、父親の生命保険である程度不自由なく生活できた。
そのとき、自分は父親の命を食べているような気がした。人の命を
犠牲に自分が生きているという感触だった。口のなかがざらざらと
ざらつくような感触。その感触をずっと持ち続けるのかと思った。
でも、人はなにかを犠牲に生きている。何かを犠牲にしないと生きて
行けないのかもしれない。だから、一人では生きていけない、という
ことだ。見えなくても自分の犠牲になっている人たちがたくさんいる
ということだ。

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